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2016-10-27 18:05:00

大隈講堂に「人間国宝」小三治師匠を迎えた夜、ゆったりと、独特の「間」をもつ名人芸に、詰めかけた客は酔いしれました。

 

しかしこの日「前口上」に続いた前座話しの中で、いきなり出てきた「平林さん」という名前を耳にした瞬間、私の耳がビクッと反応して、何か心がザワザワするのを感じたのです。

 

字の読めない奉公人と、読めないのに知ったかぶりをする「大人」たちが「平林」の読み方を巡って面白可笑しく展開してゆく。

客席の中には「平林さん」が何人かいたかもしれないし、知り合いもいたことでしょう。しかし何度も繰り返された「平林」という名前を聞くたびに、笑いながらも感慨に耽っていたのは、客席の中で私だけではなかったか・・・。

 

その二日前のホームカミングデー「稲門祭」の日。

招待年次にあたっていた、高校美術部の女子の先輩、荻村さん(旧姓仮名)が「3つのオレンジへの恋」にやってきてくれました。高校のOB会組織が十分整っていないこともあり、実に半世紀に近い時を経ての対面でした。荻村さんが訪ねて来られたのは、以前私が「平林さん」について書いたブログがきっかけでした。

 

私の書いた「平林さん」は平林和幸さんといい、荻村先輩とともに私の1期上です。平林和幸さんは武蔵大学でフランスの詩歌・文学・絵画を専攻され、同大学学長に就任されましたが、退任後の平成14年1月に亡くなられました。

ニュースで伝えられた訃報を見て、高校の先輩とお名前が一緒だと思った私は、ネットの「高校OB名鑑」を見てようやく「その平林さん」だとわかったのです。

 

高校時代の部活・美術部では平林さんの代の男子4人はとても仲がよく、部室に顔を出すといつもワイワイと賑やかで、絵を描いているところを見たことがありませんでした。私は部活や高校時代の思い出についてブログに書きましたが、平林さんのことを知って、追悼の気持ちであの頃の青春の一コマを書いたのです(14/5/23付ブログ 「先輩 平林和幸さんのこと」)。

 

荻村先輩はこの追悼ブログを見てくれたのでした。私の高校時代の担任で、静岡大学教授になられたものの、87年に53歳の若さでお亡くなりになった黒羽清隆先生の記事もご覧になってくれていました。

 

2年の時に転校してきた荻村さんはおっとりして可愛らしく、同期と言ってもよいくらいに先輩ぶらず、我々下級生の間でも人気がありました。ほかならぬわが美術部に入ってくれたことを感謝したものですが、その方と再会できたのですから、それはそれは嬉しいことでした。

 

私は追悼番組の映像で平林学長を拝見しても、高校時代の「ヒロヒロ」先輩だとわからなかったのですが、私に話しかけてこらた荻村さんは、その瞬間にすぐにわかりました。清楚なイメージはそのままに、自然で、美しく歳を重ねておられました。

 

この日荻村さんと一緒に見えたお友達とで座った席には、たまたま早稲田スポーツ新聞による女子バレーボールの写真が飾ってありました。そのお友達はそのバレーボール部員だったそうで、またもや偶然と必然の不思議を考えさせられることになりました。

 

お名前に関連してもうひとつ不思議なことが。

実は私のキーのひとつに「荻村さんのお名前」が入っているのです。

キー固有の暗証番号を忘れないよう、数字に合わせたネーミングをつけているのですが、その数字の並びは荻村さんの「ファーストネーム」以外、私には考えられませんでした。

私は毎日キーの番号を打ち込む度にそのお名前を思うのです・・・どうしておられるのだろう・・・そのご本人が突然嬉しいお顔を見せてくれたのです。

 

「平林さん」を巡るこの度の一連のできごとは、私にとってちょっとした奇跡ではないかと思っています。

 

 


2016-10-19 16:23:00

(お知らせ)

作家小川未明も学んだ早稲田。

坪内逍遥やラフカディオ・ハーンの謦咳に接したというのですから歴史や時代を感じます。

明日10月23日(日)のホームカミングデー「稲門祭」は 営業 いたしておりますので是非ご利用ください。

なお翌24日(月)はお休みです。

 

(本文)

ベートーヴェンが交響曲の世界に金字塔を打ち立てた後のブラームスの苦悩。

音楽の世界はもとより俳句、短歌、詩歌、文学・小説、絵画、映画に至るまで、至高の芸術が出現した後には、これを凌駕する新たな表現や技法はとても考えられなくなります。

 

この秋の「早稲田文化芸術週間」の企画のひとつ、「小川未明文学賞25周年記念フォ-ラム」が開催されました。

会場の小野講堂は補助席まで出さなければならないほどの盛況。小川未明のお孫さん(英晴氏)をはじめ、文学賞大賞受賞者や選考委員・学者らゆかりの方々によるパネルディスカッションで、貴重なエピソードやご見解、「小川未明童話」の現状などを拝聴することができました。

 

たしか母親姉妹が小川未明家とつながっていると言っていたねじめ正一さんが、トークで会場を何度もくすりと笑わせた後、第三部ではフラメンコで「赤い蝋燭と人魚」を演ずるという。「物語」の世界をフラメンコで一体どのように上演するのだろうと思っていました。

 

結論を申し上げると、「赤い蝋燭と人魚」を、これ以外どのように感動的に表現すればよいのだろう、絶対にできないのではないかという思いを強く抱いたことでした。

 

生で演奏されていた音楽は冒頭から深い悲しみを湛え、この物語の悲劇性を告げていました。効果的にはさまれていた小川英晴さんの気迫に満ちたナレーションと女性奏者によるボーカルと無言の舞踏と・・・涙は何度ながれてもおかしくはありませんでした。

 

以前、私はアントニオ・ガデスとスペイン国立バレエ団来日公演のテレビ放送を見て、フラメンコ芸術の一端を知りましたが、鍵田真由美・佐藤裕希フラメンコ舞踏団によるこの日の公演は、魂が震えるほど素晴らしいものでした。

人魚姫の母を、深い精神性と高度な技術をもって演じた鍵田さんと、悲劇の娘役工藤朋子さんの演技に飲みこまれた会場はしわぶき一つするものありません。短い喜びと悲しみや恐怖・怒りを演じた、この美しい「二人の人魚」にすっかり魅入られてしまったのでした。バレエ団の舞踏を終始雄弁に支えた音楽の見事さも。

 

不覚にも存じ上げなかったのですが、鍵田真由美さんはニューズウィーク(日本版)の「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれ、すでに国内外で高い評価を得ておられます。遅ればせながらこの日、鍵田さんと工藤さん、そして佐藤裕希フラメンコ舞踏団の芸術に触れることができて幸いでした。今回の上演は抜粋版とのことですが、機会があれば是非「全編」を体験してみたいと思っています。

 

小川未明展の主催者側の方ともお話をすることができましたが、昨今はこの作家のことを知らない人が多いと聞きました。日本の童謡・唱歌もそうですが・・その作品は決して子供のレベルに合わせたものではないので一見馴染みにくいかもしれませんが実に残念なことで、全国の教育現場でもっともっと取り上げてもらわなければ。時代は違いますが、私も小学校の時に担任の先生から小川未明や坪田譲治の世界を紹介されたものでした・・・・。

 

 


2016-10-13 14:30:00

伊東ゆかりさんの「小指の思い出」(作詞)誕生秘話が放送されていました。

かつて中尾ミエ、園まりとで「スパーク三人娘」と呼ばれたお茶の間の人気者で、少年期にはザ・ピーナツとクレイジーキャッツの「シャボン玉ホリデイ」とともに、この三人娘の番組が楽しみでした。

 

スパーク三人娘のあとには、新しい時代を告げるような西野バレエ団の金井克子・由美かおる・奈美悦子・原田糸子・江見早苗の豪華五人娘が颯爽と登場。男性歌手も橋・舟木・西郷の「御三家」に三田明と、今も歌い継がれる青春の名曲があってなかなか面白い時代でした。

 

三人娘といえば、私の大学時代の天地真理、小柳ルミ子、南沙織の人気はピークに達していて、ほとんどのクラスの卒業アルバムにはこの3人、特に天地真理が登場していたものだった。私は社会人になってから、葉山のヨットハーバーに写真撮影に来ていたうら若きルミ子さんを偶然目の前で見たが、夏の海でキラキラ輝いていたのを思い出す。

 

伊東ゆかりはカンツオーネの聖地・サンレモ音楽祭にも出場して賞を獲得したが、その後泣かず飛ばずになってしまったという。中尾ミエの「可愛いベイビー」や園まりの「逢いたくて逢いたくて」のようなヒット曲がなく、レコード会社やプロダクションが新境地を模索する中、歌謡曲路線に転じることになったそうだ。

 

その記念すべき第一曲目が昭和42年の「小指の思い出」。

作詞の有馬美恵子さんはこれがヒットしなければ郷里に帰るつもりだったといいます。一方で洋楽・オールディーズが好きだった伊東ゆかりはこの曲に全く気乗りがしなかったそうです。

実はその歌詞は川端康成「雪国」の中の駒子と島村の官能的な世界がモチーフになっていたそうです。しかし当時の映像を見ても純情素朴な伊東ゆかりさんが歌うことで、爽やかな青春の曲として、黛ジュン、中村晃子ら和製ポップスの中にあって全く違和感はありませんでした。

 

今でも中尾ミエから「昔からゆかりは暗かった」とからかわれる、伊東ゆかりの代表曲になった「小指の思い出」・・・本人の意図とは違った運命・人生の不思議さです。スパーク三人娘の人気は、中尾ミエ、園まりの順で地味な伊東ゆかりは3番手だったと思います。私の大学時代の同級生は伊東ゆかりが好きだったというと、別の同級生に冷やかされていましたが今では伊東ゆかりが一番と言ってもおかしくなくなりました。

 

「小指の思い出」の作曲者鈴木淳さんは早稲田グリークラブのOBで、八代亜紀やちあきなおみら多くの有名歌手を育て曲を提供、日本音楽家協会の理事長や日本音楽著作権協会の会長を務めた日本音楽界の重鎮です。

 

2012年12月、早稲田にある教会のホールで八代亜紀さんの新曲「追憶の面影橋」のお披露目コンサートが行なわれました。私は稲門グリークラブのご厚意により、すぐ目の前で八代さんの生歌数曲と、デビュー前に住んでいたという早稲田・高田馬場の安アパートの思い出などの楽しいトークも。「追憶の面影橋」と、初めて聴いた八代さんの「神田川」は心に沁みました。「追憶の・・」は「神田川」の数十年後の世界をうたった曲で、すっかり八代亜紀ワールドを堪能させていただきました。

 

その後、「追憶・・」の作曲者鈴木淳さんら稲門グリーのメンバーが当店に見え、OBならではの熟練の歌唱で校歌や「紺碧の空」などを披露してくれました。残念ながらスケジュールの都合により「3つのオレンジへの恋」に来られなかったが八代さんと、鈴木さんの色紙が店頭に飾ってあります。

 

運命の糸のあや・・・私が早稲田で「3つのオレンジへの恋」を始めたことも思えば不思議なことでした。

 


2016-10-04 18:25:00

ラジオを聴いていると意外に教えられることが多い。たいていは聴きながら(族)で、テレビと違って文字テロップもないので、まさに一瞬の伝達・伝播の妙である。

 

最近の放送で、一部だけ聴きとれたところによると、自転車のレーサーかライダーが都内の三大急坂の名をあげていた。ほかの二つの急坂はどんな名前だったのか・・・知った名のようでもあったし聞けなかった気もする・・・文京区にある「幽霊坂」の名前もあがったが、このとき語られた「鷺坂」が私にとってハイライトだった。

 

短い急な坂を上るとすぐに崖に突き当り、そこには坂の名を刻んだ石碑があるそうで、急角度で折れ曲がった坂のその先には短いもう一つの急坂があって、ハンドル操作の難しさも加わり、ライダーの技術と強い脚力をもってしても一気に登りきるのが難しいのだと。傾斜度も示して、短いが急勾配のその坂が如何に難攻であるかを語った。

 

江戸川橋にあるというこの坂の特徴を聞いて、もしやと思った。

 

私はその坂の手前の道を通ることがあって、正面が崖で行きどまりに見える急角度の短い坂が気にはなっていた。その坂を当たり前のように人が行き来し、自転車やバイクが下ってくるのも目にしたが、ついぞ足を踏み入れたことはなかった。ラジオを聴いた日、あの坂だろうかと気になって初めて登ってみた。

 

おかしなもので、のぼりながらその坂であってほしいという思いが強くなって、突当りには「鷺坂」の石碑があるだろうか、ハラハラする時間を少しでも長く楽しめるように、短い坂の距離が伸びてほしいとさえ思った。

 

ついに登り切ると、果たしてそこには「鷺坂」 と書かれた石碑が立っていた。ライダーが語った言葉は憶えていないが、矢じりのように鋭く折れ曲がった短い急坂がふたつ、たしかにその先に続いていた。

 

石碑の後ろに立つ案内板によれば、このあたりは結構文学者に縁のある地域だった。その中に佐藤春男らと並んで、私が若い日に過ごした世田谷の近くに住んでいた孤高の詩人・三好達治の名も見られたので少しうれしくなった。

 

下で接する道路から急角度で立ち上がるただのスロープのように見えた、クセが強い小ぶりのこの坂が急に好きになった。

 

(付記)

この記事をアップしたとき、「鷺坂」のことを「霊坂」と書いてしまいました(今は訂正済み)。どちらも字画数が多い一字ですが、「幽霊坂」の霊が悪戯したのかもしれません。

 

みなさんの「3つのオレンジへの恋」には可愛らしい妖精が住んでいます。きっと・・・。

 

 


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