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2012-08-28 13:35:00

 

父は日曜日の午前中、20分ほど歩いた先の繁華街にある園芸店によく行った。

小学生だった私も連れていかれた。

私は父が庭に植える草花は好きだったが、園芸店は退屈。

ときには玉電に乗ってボロ市にも行ったが、やはりこどもの興味を惹くものではなかった。

 

父は、園芸店の帰りに同じ商店街にある本屋で、「小学〇年生」といった雑誌や書籍をよく買って

くれたが、何も買ってくれないときはガッカリしたものだった。

 

世田谷区にある官舎の戸建て住宅の庭は、うんと広いというわけではなかったが、

父が買った草花、植物を育てる十分な広さがあった。

器用だった父が作った棚にはブドウの蔓が植えられ、サルカニ合戦のカニのように

早く育てと思ったが、間引きしない実は果物店のようには粒も揃わず、

全部が甘いということはなかった。

 

棚にはへちまも実り、一寸身体に痛いボディ洗いができた。

ひょうたんも作ったが、楽しみにしていた容器作りは上手くいかなかった。

 

季節ごとに父が植えた草花は何十種類あったことだろう。

思い出してみる。

チュ-リップ、ダリア、サルビア、クロッカス、水仙、沈丁花、百日紅、ひまわり、

コスモス、桔梗、朝顔、椿、山吹、紅葉に菊、イチジク、柿、桃にスモモ、南天、梅。

そういえば枇杷の実もなっていた。

大きく育った八重櫻や大王松の樹・・・、

シイタケの原木を買ってきたこともあった。

植物図鑑でも見ないと、もうとても思い出せない。

父との思い出の植物園、大切な記憶が薄れていく。

 

朝夕には母が、休みの日には父がホースで水をやった。私も手伝うようになった。

植木、草花に水をやることで、草花をいたわり、思いやる気持ちが芽生え、

精神的な安らぎをもたらす効果があることを知った。

 

この植物園に多くの昆虫や鳥たちが集まった。

夏の夕方、目の前の庭に大型のギンヤンマや鬼ヤンマが悠然と飛行する様に心ときめいた。

美しい姿に見とれ、もったいなくて決して捕まえようとは思わなかった。

 

まだク-ラーなどない時代、夜になると空けている窓からシオカラトンボや油ゼミなど、

いろいろ飛び込んできた。

蝶類はやっかいだ。

昆虫図鑑で見たオオミズアオガというデッカイやつも電球に飛来したことがある。

文字通り水色の大きな身体は、燐粉をまきちらして気持ち悪いことこのうえないが、

悔しいことにその水色は不気味に美しいといえた。

家の照明を消して外に逃げてゆくのをじッと待った。

 

春の夜には静寂の中、ただ「ジ-っ」という、音(おと)だか音(ね)だかわからない、

おけらと言われていたようだが、その単調な低い音だけがしていた。

夏も半ばを過ぎるとコオロギや秋の虫が賑やかに鳴きだし、季節の移ろいを告げた。

 

その後、父は神奈川県郊外の住宅地に100坪の宅地を購入し、自分の思いを込めて

最良の材料をふんだんに使ったマイホームを建てた。

 

たっぷりスペースをとった庭には芝生を植え、新たに大きな庭石と石灯籠を置き、植木、

草花がつぎつぎと加わっていった。

庭園用の照明は夜の庭を美しく照らした。

園芸好きだった父が、人生で一番うれしかった時代だッたかもしれない。

 

父は、母からそんなに庭が好きなら外にいたらと言われるほど、

揺りイスに座って暗くなるまで終日庭を眺めていた。

 

 

 就職してから、運よく世田谷区にあった寮に入った私は、父が肥料の油かすや腐葉土を

買うから来てくれといわれると、神奈川の実家まで車を出した。

 

やがて父は、芝刈りが大変になってくると、連絡が来て私がやるようになった。

東北出身の父はひとこと、「ありがとう」と言うときもあれば、「頼むよ」とも言った。

また何も言わないこともあったが、私にはそれでも十分であった。

父は居間の揺りイスに座って、嘗ては父と私とで交代でやったこともある芝刈り作業を

眺めていた。

 

疲れているときに、国道246号の片道2時間前後の運転は大変なこともあったが、

これまで育ててくれたことへの感謝と、昔、父と行った園芸店での買い物に、

あまりうれしくなかった気持ちを持ったことの罪ほろぼしの思いがあった。

親に喜んでもらえるというlことに、何より幸せを感じた。

 しかし、若い頃柔道で鍛え力強かった父の体力が、晩年に少しずつ衰えてゆくのを

感じるようになり、これからは最後の親孝行を果そうと思っていた矢先、父が急に亡くなった。

 

気丈に家を守ってくれていた母を引き取ってからは、実家を訪れる機会はめっきり

少なくなり、父が愛し母が慈しんだ庭は手入れもできずに、大きくなった樹木の葉は森のように

生い茂り、芝生は荒れていった。

 

私はこどものころから、そして数十年たった今でも庭の夢を見ることがある。

神奈川の家ではなく、世田谷の官舎の庭の夢。

何故か、そこには大きな虎が入りこんで歩きまわっている、怖い夢だ、

今では夢の中で、これは夢だとわかるのだが、それでもやはり怖い。

 

両親の愛に満ちた、思い出の植物園に侵入してくるのは何者なのだろうか。

父が丹精を込めてつくりあげた家を、庭を、私が守ることができないよう

奪いにきた魔物だったのか。

 

父を亡くした早春、父が気に入っていた五葉松の枝を剪定しようとハサミを入れた。

しかし、素人作業だったためかその後、松の木全体が枯れてしまった。

申し訳ないという思いと、悲しみの中、自分の気もちが整理できなくなっていた。

 

井の頭公園の歌姫と呼ばれている、あさみちゆきさんが父の思い出を歌った

「秋櫻の頃」を、今はただしみじみと聴く。

 

(お知らせ)

  9月1日(土)はお休みです。

 

 

 


2012-08-23 11:44:00

 

猛暑が続く今年の夏。

飛び切りの贈り物が信州から届きました。

早稲田大学同期のY君からです。

 

初夏に、こちらに見えたとき「大きい西瓜を送るから」と言って帰って行きましたが、

約束どおり8月に、西瓜が送られてきました。

それまで見たこともない大きさで、重くて美しい球形のその姿は貫禄がありました。

二つに切ってみると、引き締まった赤い身は期待をはるかに超えるおいしさで、

全国にはまだ知らなかった美味しいものがあると、知らされた次第です。

 

私が以前「早稲田学報」誌に記事を投稿したとき、

担当者が「反響は時間が経ってからもありますよ」と言っていた通り、

いろいろなタイミングで、拙稿を見た方が訪ねてくれました。

 

サークルの新歓の席でY君と意気投合したが、私がすぐにやめてしまい、同級でもないため

卒業以来会う機会はなかったが、約40年の後に、今は松本に住むY君と旧交復活できたのは、

たしかに「学報」効果のうれしい縁でした。

「早稲田学報」とY君に感謝です。

 

「3つのオレンジへの恋」は今日から営業ですが、

 

・ 大学の夏休み中、営業日はちょっと不定期になります。

  

  申し訳ありませんが 8月29日(水) はお休みです。

 

  9月にまたお休みが入る予定で、HPでお知らせいたしますので、

  ご注意くださいますようお願いいたします。

 

・ 「3つのオレンジへの恋」のブログ更新、もう少しお待ちください。

 

 


2012-08-16 12:31:00

少女は「オリンピック賛歌」が好きだった。

実際、昭和39年の東京オリンピック開会式に於いて、日本語で歌われた大合唱は

国立競技場の青空に響き渡り、その美しさ気高さは古今の大作曲家の名曲にひけをとらず、

聞く人の心を魅了した。

 

少女は小学校で童謡や唱歌を習うと、家で少年に歌って聞かせてあげた。

少年は小学校がとても素晴らしいところに思えた。

早く自分も学校に行きたいと思った。

少女が学校に行っている間、少年の友達はラジオだった。

 

「歌のおばさん」では、歌手の安西愛子と松田トシが有名な童謡や唱歌以外に、

白ヤギさんと黒ヤギさんの手紙をめぐる歌や、電車のつり革の歌といった教科書にはない

楽しい歌を紹介してくれた。

 

少女が麻疹で顔を赤くして寝込んだとき、少女の枕元で心配する少年の耳に

ラジオから歌が聞こえた。

たぬきの坊やのおなかにしもやけができたり、キリンのおばさんがのどにシップをしている

のを、「わらいかわせみに話すなよ」という歌だった。

 

とてもほほえましい、楽しい歌なのだが、そのときは心配と寂しさで

「けらら けらら けけらけら」という気分ではなかった。

今でも、サトー ハチロー作詩のこの歌は大好きだが、もう滅多に電波に乗ることはない

この曲がラジオから流れると、あのときの寒い冬の日の不安な気持ちが蘇る。

 

ようやく少女が快復すると、今度は少年が赤い顔で寝込んでしまい、少女が心配気に覗きこんだ。

 

少女の小学校夏休みの宿題に、朝顔など草花の植物が何科に属するかという問題があった。

少女は自信をもって答えを書き夏休み明けに提出したが、いつも「大変よくできました」

で返ってくる解答用紙には全部バツがついていた。

たとえば植物の「ナス科」と書くところを、少女は全部「理科」と書いていたのだった。

それを見て母も私も大笑いし、少女も照れくさそうに笑った。

 

少年は小学校に行くようになっても、少女やその友達と一緒に遊んでいた。

ときにはケンカもしたが、原因は少しずつ生意気になってゆく少年にあった。

 

小学校の高学年になると、それまで少年と同じようだった少女の身体に、

少しずつ女性らしい兆しが見られるようになってきた。

 

その頃から少女は、いつも少年と一緒に見た映画を、友達の少女と見に行くようになった。

洋画「エデンの東」や吉永小百合さんの「泥だらけの純情」という映画は、

まだ少年の興味をひくものではなかった。

 

少年にとって、やさしく可愛らしい少女との幸せだった日々は終わろうとし、

あれほど自分を可愛がってくれていた少女が、少し遠い世界へ行ってしまったと感じた。

そして少年の方でも、遊び相手は少女たちから男の同級生へと変っていったのだった。

 

(お知らせ)

お盆休み明けは 8月23日(木) より営業させていただきます。

20日(月)を楽しみにされていた方には誠に申し訳ありませんが、もう少しお待ちください。

 

 


2012-08-06 12:29:00

 

オリンピックで日本水泳選手の活躍が伝えられる一方、スーパースター北島選手にも、

ついにそのときが来てしまいました。

「北島選手最後の種目」400メートル メドレーリレー銀メダルのチームワークに感動。

 

プールといえば、昭和30年代、私が通った小学校にも中学校にもプールはありません

でした。

小学校の水泳では15分ほど歩いて、隣の小学校のプールまで行かねばならず、

当然授業の回数も少なく、中学にいたっては水泳の授業は皆無。

 

まだ学校以外のプール施設は少なく、夏休みや日曜に区営のプールに行くと、

ひとにぶつかって泳ぐどころではない時代でした。

 

高校になって、少々古く貫禄のある大きなプールに出会ったときは、

嬉しさと同時に、泳ぎに自信がないため少し憂鬱な思いも。

 

高校まで、私の平泳ぎは手足をせわしく動かして、25メートル×2 くらいを

何とか泳ぐ程度、

クロールでは息継ぎが完全でないため、25メートル泳ぐのが精一杯でした。

高校の水泳授業では女子も一緒でしたが、気になるひとの前でカッコイイところを

見せることなど、まるでできませんでした。

 

高校2年のときに、同級生とサイクリングで行った伊豆下田港に近い須崎の海。

岸から離れた岩まで平泳ぎで泳いだときに、足のつかない海が怖くて力が入り、

とても疲れた記憶があります。

 

泳げないということは、万一のときに致命的になるので、泳げるようにしないととは

思っていたのですが、丁度、早稲田大学体育の授業に「水泳」があったのです。

これ幸いとばかりに選択しました。

1年間やれば基本は身につくと思いました。

 

大学のプールは、高石記念プールといいい、当時まだ新しかった、一寸国連本部ビルを

思わせる文学部校舎に向かうスロープの横にありました。

 

昭和48年当時、早稲田本キャンではまだ女子学生の数は少なく、法学部フランス語の

私のクラスには女子が二人いたが、ドイツ語やほかの語学クラスとなると女子ゼロが普通。

 

女子が多かった文キャンは女子大の趣きでした。

他学部の男子学生が一人で足を踏み入れるには一寸勇気がいたが、

入れ違いに卒業した吉永小百合さんは、ついこの間までここに通っていたのだ

という、ささやかな喜びも。

 男子学生がなんとなく文学部に入りづらかった思いは、男子ひとりで初めて

「3つのオレンジへの恋」に入るときと似ているかもしれません。

 

スロープ横の入り口からプール建物内に入ると、今でも反射的に緊張してしまう、

消毒用の塩素の匂いが漂う。

 

プールサイドにメガネは持ち込み禁止で、メガネを置いてロッカーを出ると視界が悪く、

すでに不安の念。

飛び込み用にも使えるようになっている25メートルプールの半分は深くなっていて、

薄暗い室内照明ではどのくらい深いのかも分らず、近眼の初心者にとっては

悪条件が重なり、恐怖感が一層増しました。

 

実技試験のひとつの潜水泳ぎでは、25メートルプールの深い方に向かって泳ぐので、

メガネなしだと水中の位置、距離感が全くわからない。

向こうにある真っ暗の奈落が怖くて、深くなり始めたところで浮上してしまった。

 

1年間の水泳授業の締めくくりは、プールの短いサイドを使っての4種目個人メドレーだ。

1種目15メートル弱だと思うが、初心者にとってはきつい。

背泳ぎもバタフライだって沈まないのがやっとで不完全だったがやり遂げた。

 

もし、近視用の度付きゴーグルが使えたならば、先生の指導もよく見えて理解度も増し、

安心感も加わってもう少し上達できたかもしれない。

ともかくも1年間の授業は終わった。

 

結局、成績は「可」だったと思うが、おかげ様で平泳ぎは何とかこなせるようになり、

小・中学校を含めた分の水泳授業ができたと思いました。

それでも未だにプールの消毒用塩素の匂いは、反射的に緊張感と不安感を芽生えさせます。

 

そして大学の夏休み中、父の勤める官庁外郭団体の運営する50メートルの大プールで、

監視員のバイトをすることになった。

 

長い間、プールと縁がなかった人生が、ひと夏、4年間どっぷりプール漬けになり、さすがに

そのときは塩素の匂いは身近になり怖さを感じなかった。

このバイトと早稲田の体育授業のおかげで、50メートルのプールを、ゆっくりではあるが、

平泳ぎで何往復もできるようになりました。

 

そしてそのプールで、後に親戚のひとから、私の父が結びつけてくれた縁だねといわれた人と

出会うことになったのです。

 

 (お知らせ)

   8月6日から18日までお休みです。

   8月23日(木)より営業いたします。

 


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