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2012-05-29 00:00:00

 

「冷めたピザ」。

一般には、温かければ美味しい料理も、冷めてしまうと味が落ちるのが普通です。

 

当店でもオムライスはできたての熱つあつトロトロを食べていただきたい、

との思いからテイクアウトは、当初考えていませんでした。

 

しかし、お客様からのご要望があり試験的に始めてみると、持ち帰ってそのまま食べても、

冷めていても美味しかったとの声をいただきました。

 

私も、たまに注文ミスでつくってしまったオムライスを、後で食べることがありますが、 

十分に美味しいと思っています。

もちろん、レンジで温めてもよし。

 

以前、杉並から早稲田の当店まで自転車を飛ばして、オムライスを2つ、テイクアウトで

買っていかれる熟年の男性がいらっしゃいました。

 

交通量の多い街道を、サイクリング車にヘルメットをかぶり、はるばる何度も来てくれたのです。

私よりも先輩に見えるそのお客様とは、特にお話はできませんでしたが、

もう一人の方を思いやる気持ちが素晴らしいと思いました。

 

お二人が笑顔で、持ち帰ったそのオムライスを召し上がる光景、とても素敵です。

 

 

(メ モ)

「3つのオレンジへの恋」のHPやブログの記事も、時間がたっても美味しいものが一杯あります。

これまでの記録もどうぞご覧ください。

冷めても美味しい!。

 

 


2012-05-20 11:42:00

 

「3つのオレンジへの恋」が生まれる前、それまでの内装、外装を完全に作り変えた

突貫工事によって、店の構えがだんだんと出来上がってゆきました。

前を通りかかる学生たちからよく聞かれました。

「何の店ですか?」

「いつオープンですか?」

それはまるで、ひとの誕生のようです。

「男の子、女の子どちら?」

「ご予定日は?」

 

 2002年4月8日、現在の地で「3つのオレンジへの恋」は生まれました。

ひとの記憶の始まりが薄い暗がりの向こうにあるように、「3つのオレンジへの恋」が誕生した

とき、目の前は大学の第一学生会館を取り壊した跡の更地で、汚れの目立つ万年塀は

寒々と暗く、威圧感を与えていました。

 

その塀は、まるで記憶の始まりと同じように、店の前面の春の明るい陽光を

闇のなかに易々と吸い込んでしまうよう。

やがて、長い受胎期間と工事を経て、その敷地には早稲田大学建学の母といわれる

小野梓を顕彰する記念講堂と法学部ロースクールを収容するタイル貼りの校舎が完成。

 

立ちはだかっていた塀が取り払われると、目の前には覚悟していた建物の壁面はなく、

開放通路が開けていて、そこから爽やかな風が吹いてきました。

そしてその先には正門前広場が開け、小野梓の胸像が大学の象徴である大隈講堂を

慈しむかのように眺望できるよう設計されていたのです。

 

数ある早稲田大学の建物施設のなかで、これほど意味のある景観としては、ほかに

大隈講堂を見つめる大隈老候の銅像があるだけではないでしょうか。

 

「この店にはいい風が吹いている。私には分る」。

まだ、殺風景な万年塀が店の目の前を覆っていたころ、そう「予言」した女性がいました。

そのとき、私にはその風は見えませんでした。

しかし、予言どおりに良い風が吹いて、覆われていたベールを取り払い去った。

いま、タイル貼りのその壁は美しい緑のベールに覆われています。

小野梓の視線と同じ方向、通路を通して見える緑は大隈講堂前の常盤の松だ。

 

小野梓記念館のあるこの27号棟が竣工したのは2005年の2月。

「3つのオレンジへの恋」が間もなく3歳になろうかという時期でした。

いよいよ「3つのオレンジへの恋」の「記憶」が始まったのです。

 

 


2012-05-19 17:55:00

 

以前にも書いた、信州長野で大学の先生をしているY君がやってきました。

いつもながら人懐こい顔に、こちらも笑顔になってしまいます。

大学の同期だが同級生でもなく、サークルでいっしょということもない。

私は直ぐにやめてしまった法学部創法会の新勧のコンパでたまたま近くにいて

知りあったのだが、お互いに同級生以上の親しみを感じる。

人間関係の妙だと思います。

 

4年前の国際教養学部の卒業生、いまは地元の香川で父親の経営するセメント会社で

働いているO君もやってきました。

歴史ドラマなどの影響で四国の男は皆多弁かと思うと、1年生のときから通ってくれた彼は

寡黙で控え目です。

O君は浦和レッズやパヒュームを愛する現代青年ですが、ふだん物静かで、いざとなると力を

発揮した、知的水準の高かった幕末の地方藩武士の風貌があるように思いました。

店のノートに「キャンパスに思い入れはないが、ここに来ると凄く落ち着く」と書いてくれました。

故郷で親を助け、立派に仕事を発展させることができれば、これほどの親孝行はありません。

地元で立派な経済人になってほしいものです。

 

 私自身は、早稲田大学の景色を愛しますが、法学部の特性か、ゼミ組織が弱いせいか、

残念ですがやはりクラスそのものや教員に愛着はありません。

高校までと違い、語学のみのクラスのため毎日接して理解しあう機会が少ないせいか。

「自我が発達(?)」してお互い「食えない奴」になったせいか。

一般に、社会に出てからは「ノウハウ」よりも「ノウフー」といわれ、

人脈が大切になるのに、貴重な早稲田の人材、まことにもったいない話しです。

 

「袖ふれ合うのも他生の縁」と思う私は、「3つのオレンジへの恋」によって旧交が復活。

さらに多くの新たな知己を得ることができているのは望外の喜びです。

 

その一方で、「3つのオレンジへの恋」は、これまでの関係を見直すよい機会を与えてくれました。

 

 早稲田の地の「3つのオレンジへの恋」。

そこで出会うひとは、みなかけがえのない大切なひと。

 

遠方の友といえば、小学校や中学校時代の友達。

東京の公立校で同窓会組織もなく、私もそうだが官舎、社宅組が多かったために、

もう殆どが散らばって会うのは困難です。

クラスのみんなも、あのひとも、先生も、みんな元気でいるだろうか。

 

 


2012-05-17 12:06:00

 

5月5日のこどもの日、私と妻は息子夫婦の家に行きました。

間もなく98歳になる母親も、何とか初めて一緒できました。

 

息子夫婦には、4歳の長男と2歳になる妹の二人のこども。

男の子はご多聞にもれず仮面ライダーに夢中で、妹もまるで弟のように

活発に一緒に遊んでいます。

孫娘は人見知りもようやく収まり、おじいちゃんと慕って来ます。

今は特養のホームに入っている私の母親を交えて4世代がそろいました。

 

私は現在62歳ですが、若い息子夫婦とふたつの小さな命を前にして、幸い健在でいてくれる

私の母親と亡き父のことを思うと深い感慨が湧き起こります。

それは、たとえば毎年繰り返される大晦日や続く新年のように、月日の流れを感じるとともに、

新たな、一寸厳粛な気持ちを抱くことに似ているかもしれません。

二度と帰らない日々は切なく、大切な記憶は失われてゆく哀しみを湛えています。

 

よくいわれますが、自分の子育ては必死で、やがてすぐに反抗期が来ていつの間にか

癒しの日々は過ぎてしまいます。

ついこの間、自分自身が幼な子だった私の息子が父親とは、軽い驚きです。

幼稚園の年中組に通う孫の男の子を見ると、私自身でさえほんの少し前のことの

ようにも思えるくらいです。

 

 

私の二人の子供は年子でしたので、下の息子が生まれるときに、私の両親に長女を預かって

もらいました。

私になついていた、まだ1歳だった長女はハイハイしながら、私が実家から帰るときには泣いて

追いかけました。

やがて今度は、私の母の姿が見えなくなると、泣きながらハイハイで母を追いました。

 

私の両親は長女を預かったことを大変喜び、抱っこしたり、ベビー車に乗せて近所の公園に

散歩に行きました。

よく可愛いいといわれると言っては喜んでいました。

 

ある日、私が実家に帰ると、娘が「オー」と言うので、両親には珍しく乱暴な言葉を覚えたなと

思い聞くと、近所の公園にいるクジャクの鳴き声だとのことでした。

クジャクは何て鳴くのと聞くと、娘は大きな声で「オー」と言うのでした。

やはりマネをしていた鹿の鳴き声をについては、さすがに忘れてしまいました。

 

「ド、ド」というのは屋根のテレビアンテナで、食べ終わった後のブドウの房に似ているから。

両親が一生懸命に、かたことの言葉を覚え始めた娘に教えてくれたんだと思うとジーンとしました。

 

いよいよ実家を去る日には、馴れ親しんだ私の両親と離れる娘が大泣きして、私の母も涙、

涙でした。

その後、家に遊びに来た母が帰る際にはやはり大泣きした娘でしたが、その後は妻の実家に

行くことの方が多く、私の両親とのあれほどの思いも涙も、娘はすっかり忘れ去ったようです。

 

私の子どもたちや孫たちのことを見るにつけ、自分自身、母と亡き父にどんなに慈しみ

育てられたことかと思う。

記憶にはないが両親の親と、そのほかにも叔母たちや身近なひとたちの大きく深い愛情を

注がれていたのだということを、思い知ります。

 

しかし、記憶が残る以前の人生の幼い日々、ひとはそんな大切なことを覚えていないのです。

ひとの記憶というものは一体何歳くらいから形成されるものなのだろうか。

 

画質のよいビデオ映像を繰り返し見ることのできるいまの幼児たちは、昔のこどもたちよりも 

幼い日々の記憶は鮮明に残るのだろうか。

98歳の母親との間で、どうにか会話がなりたっている嬉しさを噛みしめながら思うのです。

 

(続く)

 


2012-05-13 12:20:00

ほとんど偶然に近いかたちで知った歌手、あさみちゆき さんが

5月15日(火) 「NHK 歌謡コンサート」に出場します。

新曲「新橋二丁目七番地」を知らせる、大きな新聞広告紙面で見ました。

私は、その夕刊を見落としていたのですが、妻が見つけてくれました。

 

「公演の歌姫」といえば聞こえはいいが、最初は立ち止まって聞く人もいなかったであろう

日々から迎えた、今年は涙の10周年です。

 

同じくNHK「クローズアップ現代」で、あさみちゆきさんは「演歌の逆襲」というタイトルで

とりあげられたことがあります。

そのときのタイトルが「公園の歌姫」であれば見たと思いますが、「演歌の」となっていたため、

まだ、歌手あさみちゆきさんを知らなかった私は、その番組を見ることはありませんでした。

タイトルの責任は大きいと思いました。

演歌は逆襲しなくてもそこら中演歌だらけじゃないか!。

演歌のよさは認めつつも、「あさみちゆき」を知るほどに、何でも演歌扱いにしてほしくはない

という気持ちです。

 

あさみさんと同じ10年間、悩み、もがきながらも、お客様に支えられて育った

「3つのオレンジへの恋」は、逆境から立ち上がった あさみ に精一杯のエールを送ります。

 

今日の日曜日、「「NHKのど自慢」は、私の両親の出身県である秋田の、鹿角市から。

最近には珍しく民謡を歌うひとが多かった。

かつて、あさみちゆきさんも「のど自慢 山口県光市大会」や「BS勝ち抜き歌謡選手権 

福山大会」でチャンピオンになったのだそうです。

 

そういえば、昔は「のど自慢大会」で、陽気でユーモラスな秋田民謡の「どんぱん節」が

よく歌われたものだった。

あの「どんぱん節」はどこへいったのだろうか。

 

(後記)

あさみちゆきさん、とてもよかったと思いました。

小林旭、森進一、橋幸夫ら大先輩の中、ギターを手に堂々と「新橋二丁目七番地」を歌っていました。

三原綱木指揮による演奏スタイルは、CDよりもより爽やかでとてもよかったです。

司会のアナウンサーが「あさみち ゆき」さんといっているように聞こえるのが面白かった。

あとは「紅白」出場を祈るだけ。

 

 


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