インフォメーション

2011-09-27 13:29:00

 

あれは私が小学校6年生のときのことだったでしょうか。

帰宅するため、渋谷駅前から世田谷方面に向かうバスに乗った私は、降車ドア近くの

横長座席に腰を下ろました。

 

たしか夜の8時も過ぎた頃、外はすでに暗く、車内の乗客は僅かでした。

 

ふと最後部の方向に目をやると、ただひとり、色白で丸顔、日本人形のように可愛らしい少女が

きちんとした佇まいで、まっすぐに前方を見ていました。

 

私は、気になってときどき少女を振り返りました。

少女はあいかわらず、まっすぐ前方を見てこころなしか微笑んでいるようにみえました。

 

短い乗車時間が過ぎ、私は後ろ髪を引かれる思いで少女より先にバスを降りました。

少女はまだ座ったままでした。

年齢も学年も、小学生なのかどうかも分らないまま。

 

それから時間が流れた後、再度、バスの中で少女といっしょになりました。

あのときと同じシーンが繰り返され、少女は後部座席に座ったまま、私が先に降りて

ゆきました。

 

やがて私は、そのバス路線の中にある区立中学に入学しました。

当時はベビーブーム、団塊世代の生徒は男女とも大人数でクラスは10もあって、

誰が何年生なのか、どこのクラスなのかとても見分けることなどできませんでした。

 

新しい学園生活が始まり、その少女のことはもう忘れていたが、 あるとき、校内の人混み

の中に、その少女らしき姿を見かけたような気がした。ほんの瞬間であったが、バスの中にいた

少女のようだと思った。

 

それは後になって観た、私が好きなミュージカル映画「南太平洋」のなかの「魅惑の宵」の

ジーンのようだと思った。

雑踏のなかにそのひとを見つけた。

 

校内の廊下で、移動する生徒の人混みのなかでハッキリと顔を見たわけでないし、だいいち、

あの日、いまほど明るくはなかったバスの車内照明の下で、ほんの数回振り返って見ただけの、

あのときの少女の顔だって憶えていたと云えただろうか。

 

その少女であってほしいと思う一方で、いくらなんでも都合よく同じ中学にいるはずはないとも

思った。

 

2年になってクラスがえがあり、、新しいクラスにその少女がいた。

自分でもそのひとなのかどうか半信半疑であったが、住所録で彼女がそのバス路線を使う

ことがわかった。

 

いっしょに勤めたいものだと思った学級委員長になって、奈良・京都修学旅行のときには、

連日、整列で二人はクラスの先頭に立った。

照れくさいが、うれしかった。

ふたりが並ぶ機会がなくなる就学旅行が終わるのが寂しかった。

 

学級委員長会議に二人で出席することはあったが、少女と特別な出来事や思い出はなかった。

それでも中学時代の幸福な時期だった。

 

中学卒業の前だったか卒業後か、クラス会か何か打ち合わせのため、私は男のクラスメートと

一緒に彼女を自宅に招いた。

彼女は、小学校時代のあの日、一足先に私が降りたバスの停留所から、私が教えた道を

辿ってきてくれた。

 

緊張してしまい、男子の友人がいてくれてよかったと思った。

一方でふたりだけでいたかったという矛盾した思い。

 

母が出してくれたお茶を飲みながら、バナナの皮をどちらからむいて食べるかを話したが,

ほかは覚えていない。

彼女の白いブラウスが眩しかった、

慎ましく品のよい姿だけが思い出。

 

後にピアノを専攻したという彼女は、中学のすぐ近くの名門都立高校へ進み、

違う都立高校に進んだ私は、いつしか、彼女のことは忘れていった。 

 

バスの中のあの日の少女は。あの日何度も後方を振り返った少年がいたことを

覚えているだろうか。

彼女が学んでいたというピアノの楽曲の演奏とともに、ついに聞くことはなかったが、

バスで偶然に一緒になった少女と同じクラスになれたという幸運だけでよかった。

 

こんなことって絶対に誰にもあることではないのだから。

 

 

(思い出の想い出)

 

クラス委員には学級委員長、厚生委員ともうひとつたしか図書委員があり、学期ごとに

選出された。

 

修学旅行があった1学期、私は心の中でその少女と一緒に学級員長になりたいと

思っていました。

クラス替えがあっで、まだ知らないひとだらけの2年生の新学期。

委員長候補は男女とも立候補はなく他薦でした。男子は私を含め3人くらいが候補に。

黒板に正の字が書かれてゆき、私が選ばれました。

 

女子からは彼女を推す声が出て、投票なしでその少女が選ばれたと思います。

彼女は物静かで穏やかな性格でしたが、可愛らしくて、性格も成績もよい彼女は、

どちらかというと男子よりも女子に絶大な人気、人望がありました。

 

この想い出では、幸運の女神は十分に微笑んでくれました、

学区が違ったその中学に私が越境入学できたのは、、叔母の住まいを住所とし手続きを

とってくれた、父親のおかげでした。

 

私が利用できるバスは3~4路線あったが、たまたまそこに停まっていたバス。

彼女が利用するのはそのときの1路線だけだったと思います。

あの頃、世田谷を走るとはいえ、小学生の少女がひとりで乗るには遅い時間帯のバスでの

出会いと、その後のいくつかのできごと。

 

重なる偶然や、私の進学を思う父の気持ちがなければ、この素敵な思い出はなく、

バスの中での一瞬の幻だけだったのです。

幻の少女が姿を見せてくれただけで十分に幸せなことでした。

 

修学旅行の整列時にふたりが先頭に並ぶ姿、手前が私。

写真館のひとが撮ったモノクロのスナップ写真です。

買ったのは私だけだったかもしれません。

 

 


2011-09-21 10:33:00

 

「早稲田大学のキャンパスには、人っ子一人姿がみえない、暑い夏の日がある」

 

こんな都市伝説がありそうな、ある日、、ビジネスマンが二人でみえ、デミハヤシ・オムを召し上がると

 

「美味しかった。お店でなく自宅ならば、お皿までキレイに舐めたいくらい、おいしかった」と。

 

うれしい言葉でした。

 

これまで、いろいろとお褒めの言葉をいただいてきましたが、この言葉はまた新しい1ページを飾らせていただきました。

 

こんなお褒めをいただきながらまことに申し訳ありませんが、

9月20日からの第3週 はお休み させていただき、9月26日(月)より 営業いたします。

 

よろしくお願いいたします。

 

 

なつかしの青春の映画、洋画の記事満載のブログもご覧ください(このHPよりリンク)。

 


2011-09-14 12:13:00

フジテレビ系BSフジ、夜8時からの「プライムニュース」。

 

ほとんど2時間に近い放送枠で、ひとりか二人のゲストがタップリと語れます。先月は曽野綾子さんが登場、興味深く拝見しました。

 

曽野さんが最近のこどもは本を読まなくなったと指摘していました。

 

 

わたしたち団塊世代が子供の頃、まだテレビが普及する前、電波系情報ツールはラジオのみで、あとは本と新聞しかありませんでした。

 

映像系は映画と学校でのスライドで、映画館ではニュース映画が併映され、先日なくなられた竹脇無我さんのお父様、しょうさくさんの魅力的な独特の語り口が快く、今でも耳にのこっています。

 

 あの頃は、日の暮れるまで外で遊んでいました。

 

石蹴り、かくれんぼ、追いかけっこ、鬼ごっこ、カンけり。 おもちゃの刀でチャンバラや、手裏剣の真似事で忍者ごっこ。。鞍馬天狗と新撰組が人気で、一番小さな子は杉作役でした。

 

西部劇ごっこでは、輪ゴムを飛ばす針金製のピストルや、お祭りで買った山吹鉄砲。ようやくピストルのおもちゃ、コルト45は人気だった。

ウィンチェスターがほしかった。

 

原っぱでは、木の枝と夏草雑草でがんばって作った隠れ家が、翌日壊されていてガッカリしたことも。

落とし穴も掘りました。

 

こどもの軟式ボール野球には十分な広さだったが、大きな打球は原っぱを越えて外の家に飛び込んだ。

サザエさんの世界だ。

 

原っぱには、シオカラ、ムギワラ、赤トンボ。もん白、もん黄、シジミの小型の蝶や青筋や黒いカラス揚羽の大型の蝶。

セミやバッタ、カマキリ。昆虫の宝庫で、こどもたちはタモをもって追いかけた。オオトといっていた殿様バッタは人気だった。

 

小川ともいえない、小さな水の流れがあって、水色や、黒い尾をした糸トンボは、か細く、作り物のように美しい姿。

 

夏草生い茂り、秋には虫の声、冬から春先には土埃が舞った遊び場、原っぱ。夜一人で歩くと少し怖かった原っぱは、

やがて柵で囲われた。

 

そして、そこの一角には、滋味あふれる名俳優、田村高広さんの邸宅が建ちました。

地鎮祭の日、敷地の前をとおりかかったとき、関係者の姿が見えました。

高広さんはもちろん、デビュー前の正和さんや亮さんもいらしたのではないでしょうか。

 

そこから一寸足を延ばすと、今ではやはり人気の住宅地となっている場所に、田んぼがあってゲンゴロウやザリガニ、水澄ましのすがた。

初めて蛭に吸い付かれました。

 

秋には赤とんぼの大群。その中を悠然と飛ぶ大型の銀ヤンマやオニヤンマの雄姿は、神聖で侵すべからずの風格があって感動的でした。

 

台風が近づくと、穏やかだった緑の田は、強風で荒れ狂う海のよう。低い灰色の雲が次々と飛び去り、あたりにひとの姿はなく、怖くなった私は、急いで家路についた。

 

竹馬が流行ると器用な父はさっそく手作りでみごとな作品を作ってくれました。空きカンに長い紐をつけて高下駄のようにして歩いたこともありました。

 

馬乗りでは男の子も女の子もなかよくいっしょになって、まず先頭の子が壁や柱の前につかまって固定して馬をつくって、ひとりずつ飛び乗ります。落ちた子は馬に加わり、くずれるまで何人も飛び乗ったものでした。大きい子が飛び乗るときは恐怖でした。

 

地面に円を描いて相撲。駆けっこもしました。ドッジボールも。

 

イーチー、ニーイー、サアーンと女の子も男の子もいっしょに大縄跳び遊び。「オー」「エス」と綱引きもした。

アメリカからブームになったホッピングやフラフープ。ブーメランはなかなかうまく戻らず失くしてしまった。。

 

最近テレビのCMにあった懐かしい「ダルマさんが転んだ」。

「初めのイイイッポ(一歩)」はそのときの第一声であったろうか。

 

「チヨコレエト」、「パイナツプル」、「バナナ」は、地面に輪を書いた陣取りゲームか。階段の登り降りゲームだったろうか。

 

男の子は、ひとに当たると一寸危ないパチンコやビー玉やメンコ、けん玉遊びも。

ゴムボールを手で打つ、三角ベースの語源のわからない「ちょうせん野球」は、3人いるとできる手軽な遊びだった。

 

夏の夕べ、電気花火に線香花火。ネズミ花火や不気味なヘビ花火、ロケット花火などで花火遊び。

夜、墓地に行く肝試し。

 

寒い冬にはおしくら饅頭、焚き火で焼いたおイモは黒焦げだった。

 

正月には凧あげ遊び。羽根つきはやがてモダンなバドミントンに代わっていった。

 

竹ヒゴ製、ゴム動力の手作り飛行機遊びは映画「3丁目の夕日」でも。

 

カゴメカゴメや花いちもんめ。こどもたちの年齢にはばらつきがあって、少々乱暴ものはいましたが、えばる子もなく、みな仲良しで、大きな家族のように自然に長幼がおさまっていました。

 

世田谷ののどかな住宅街、ときどき「玄米パンのホッカ、ホカー」と玄米パン売りがやって来ました。

爆弾あられ売りがくると家から、小銭ともち米をもってオジサンに渡す。ドカンという音の後、アラレができるのでした。

 

5円玉や10円玉をもって、今もわずかに残る駄菓子屋での買い物、酢イカやラムネ。飲み物も菓子も好きだった。くじにはいつも「スカ」の文字!。

 

涼しげな音を鳴らしながら風鈴売りが来た時期もありました。豆腐売りも,アサリ売りも。

 

夕方になると「明日天気になあれ」と「下駄占い」をして、「カラスが鳴くからかーえろ」と歌いながら家に帰りました。 

 

そしてラジオの前で「1丁目1番地」や「笛吹き童子」に「紅孔雀」。「赤胴鈴乃助」、「少年探偵団」を楽しみに聞き入った。

どれも主題歌が抜群によかった。

 

ラジオは、小学校2~3年生のときにテレビが普及する前までのことでした。

 

1日が何と長く充実していたことだろう。

 

当時の写真をたまに見と。「Vサイン」のポーズもまだなく、みないい表情だ。

大人の世界はまだはるか遠くの向こうで、素直に明日が信じられた。

 

遊んでばかりでしたが、本は自然に読んでいました。今の子がふつうに本を読まないのとはまったく逆で、本は面白くて、いつも身近にありました。

 

小学館の学年ごとの学習雑誌や講談社の「少年少女世界名作全集」。

岩波の四角い絵本童話。

たしか実業の日本社から出ていたとても厚い「日本の昔話」や「世界の昔話」もおもしろかった。

いまも新聞広告で目にする童話や子供向けの出版社の名は懐かしい。。

 

表紙の絵が紙芝居風だった「少年探偵団」シリーズは今もあるのだろうか。

 

あのころ、毎日が楽しく幸せでした。

 

本当によく遊んだものだ。

 

あらためて、両親の深い愛情に感謝せずにいられません。

 

 

 いまのこどもたちは家のなかでゲーム遊びに熱中します。

外で大勢と遊ばないので、ひととの接し方も判らないと聞きます。これも時代の流れなのか、何ともいいようがありません。

彼らの何十年後の思い出は、一体どうなっていることだろうか。

 

子供時代。それはどんなにお金を積んでも、もう2度と再現はできないぜいたくな日々。

映画「3丁目の夕日」は、世代の若い監督がみごとに描きあげてくれました。

 

しかし、あの時代のこどもが決して味わうことができなかったもの。

それは「3つのオレンジへの恋」のオムライス。

 

 

(付記)

この記事がアップした日、NHK「クローズアップ現代」で、津波により児童70名が亡くなられた大川小学校と、200名以上が犠牲になった消防団をとりあげていました。

 

人生を、その入り口や途中で無残にも奪われた方々と、残された方のこころの傷の深さ・・・・。

 

衷心よりご冥福をお祈りいたします。

 

  


2011-09-10 10:45:00

 

いつもご利用ありがとうございます。

 

申し訳ありませんが、9月の第4週 20日(火)、21日(水)、22日(木)、24日(土) はお休みとさせていただきます。

 

9月の26日(月)より営業いたしますのでよろしくお願いいたします。

 

 

先日、卒業前に美味しい店歩きをしているという、理工学部4年の男子学生が、交換ノートに書かれた内容をみて

「いいなあ。自分も20年後こうなりたいな」と言っていました。

 

その内容とは

 

「きょうは、20ねんぶりに娘をつれてOPEN CAMPUSにきました。在学中にこんなかわいい女子向けのお店があったらよかったのにイー。

 

きっと毎日きてました。

 

応援部の 樋口主将かっこよかった 

 

応援部のステージで久し振りの「学生注目!」

 

「なんだ!」でスカっとしました。

 

あとは2年後の娘の合格をいのっています。

 

入学式でまたきます。

 

 必ず!」

 

( お待ちいたしております。そして20年後にもお店が存続しているよう祈ります。応援、お願いいたします。   早稲田OBの店主より )

 

 

 


2011-09-05 10:19:00

「一番好きな食べ物は?」と聞かれた俳優は迷わず、ひとこと「クレーム・ブリュレ!」とこたえました。

 

そのひとは、映画「英国王のスピーチ」で名演技を見せたコリン・ファースです。

 

 アメリカの、質の高いテレビ番組シリーズ、映画監督や俳優らが出演して「自らを語る」の中でのことです。

 

コリン・ファースは一寸はにかんでいるようにも見えました。たしかに、女優なら不思議でないが、男優の好みでは少々以外な感じがしないでもありません。

 

しかし1度でも「3つのオレンジへの恋」のクレーム・ブリュレを食べたことのあるひとなら、即納得でしょう。

「どんぶりで食べたい!」「いやバケツいっぱい食べたい!」。

 

いずれも当店お客様の声です。

 

映画「アメリ」で一躍有名になったクレーム・ブリュレ。世界が認める名俳優をも魅了する食べ物であったとは嬉しいことです。

 

からだ と こころ に優しい、「3つのオレンジへの恋」のクレームブリュレは、当店でもオムライスとともに人気ものです。

 

大学はまだ夏休み中ですが、今週の水曜日、9月7日 より営業いたします。

9月中は多少不定期営業になるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

 

 

戦後生まれが選んだ「わが青春の洋画ベスト100」 。

ブログ「3つのオレンジへの恋の物語  オムライス屋さんのお話」で

是非ご覧ください(この画面からリンク)。

 


1