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2011-09-14 12:13:00

フジテレビ系BSフジ、夜8時からの「プライムニュース」。

 

ほとんど2時間に近い放送枠で、ひとりか二人のゲストがタップリと語れます。先月は曽野綾子さんが登場、興味深く拝見しました。

 

曽野さんが最近のこどもは本を読まなくなったと指摘していました。

 

 

わたしたち団塊世代が子供の頃、まだテレビが普及する前、電波系情報ツールはラジオのみで、あとは本と新聞しかありませんでした。

 

映像系は映画と学校でのスライドで、映画館ではニュース映画が併映され、先日なくなられた竹脇無我さんのお父様、しょうさくさんの魅力的な独特の語り口が快く、今でも耳にのこっています。

 

 あの頃は、日の暮れるまで外で遊んでいました。

 

石蹴り、かくれんぼ、追いかけっこ、鬼ごっこ、カンけり。 おもちゃの刀でチャンバラや、手裏剣の真似事で忍者ごっこ。。鞍馬天狗と新撰組が人気で、一番小さな子は杉作役でした。

 

西部劇ごっこでは、輪ゴムを飛ばす針金製のピストルや、お祭りで買った山吹鉄砲。ようやくピストルのおもちゃ、コルト45は人気だった。

ウィンチェスターがほしかった。

 

原っぱでは、木の枝と夏草雑草でがんばって作った隠れ家が、翌日壊されていてガッカリしたことも。

落とし穴も掘りました。

 

こどもの軟式ボール野球には十分な広さだったが、大きな打球は原っぱを越えて外の家に飛び込んだ。

サザエさんの世界だ。

 

原っぱには、シオカラ、ムギワラ、赤トンボ。もん白、もん黄、シジミの小型の蝶や青筋や黒いカラス揚羽の大型の蝶。

セミやバッタ、カマキリ。昆虫の宝庫で、こどもたちはタモをもって追いかけた。オオトといっていた殿様バッタは人気だった。

 

小川ともいえない、小さな水の流れがあって、水色や、黒い尾をした糸トンボは、か細く、作り物のように美しい姿。

 

夏草生い茂り、秋には虫の声、冬から春先には土埃が舞った遊び場、原っぱ。夜一人で歩くと少し怖かった原っぱは、

やがて柵で囲われた。

 

そして、そこの一角には、滋味あふれる名俳優、田村高広さんの邸宅が建ちました。

地鎮祭の日、敷地の前をとおりかかったとき、関係者の姿が見えました。

高広さんはもちろん、デビュー前の正和さんや亮さんもいらしたのではないでしょうか。

 

そこから一寸足を延ばすと、今ではやはり人気の住宅地となっている場所に、田んぼがあってゲンゴロウやザリガニ、水澄ましのすがた。

初めて蛭に吸い付かれました。

 

秋には赤とんぼの大群。その中を悠然と飛ぶ大型の銀ヤンマやオニヤンマの雄姿は、神聖で侵すべからずの風格があって感動的でした。

 

台風が近づくと、穏やかだった緑の田は、強風で荒れ狂う海のよう。低い灰色の雲が次々と飛び去り、あたりにひとの姿はなく、怖くなった私は、急いで家路についた。

 

竹馬が流行ると器用な父はさっそく手作りでみごとな作品を作ってくれました。空きカンに長い紐をつけて高下駄のようにして歩いたこともありました。

 

馬乗りでは男の子も女の子もなかよくいっしょになって、まず先頭の子が壁や柱の前につかまって固定して馬をつくって、ひとりずつ飛び乗ります。落ちた子は馬に加わり、くずれるまで何人も飛び乗ったものでした。大きい子が飛び乗るときは恐怖でした。

 

地面に円を描いて相撲。駆けっこもしました。ドッジボールも。

 

イーチー、ニーイー、サアーンと女の子も男の子もいっしょに大縄跳び遊び。「オー」「エス」と綱引きもした。

アメリカからブームになったホッピングやフラフープ。ブーメランはなかなかうまく戻らず失くしてしまった。。

 

最近テレビのCMにあった懐かしい「ダルマさんが転んだ」。

「初めのイイイッポ(一歩)」はそのときの第一声であったろうか。

 

「チヨコレエト」、「パイナツプル」、「バナナ」は、地面に輪を書いた陣取りゲームか。階段の登り降りゲームだったろうか。

 

男の子は、ひとに当たると一寸危ないパチンコやビー玉やメンコ、けん玉遊びも。

ゴムボールを手で打つ、三角ベースの語源のわからない「ちょうせん野球」は、3人いるとできる手軽な遊びだった。

 

夏の夕べ、電気花火に線香花火。ネズミ花火や不気味なヘビ花火、ロケット花火などで花火遊び。

夜、墓地に行く肝試し。

 

寒い冬にはおしくら饅頭、焚き火で焼いたおイモは黒焦げだった。

 

正月には凧あげ遊び。羽根つきはやがてモダンなバドミントンに代わっていった。

 

竹ヒゴ製、ゴム動力の手作り飛行機遊びは映画「3丁目の夕日」でも。

 

カゴメカゴメや花いちもんめ。こどもたちの年齢にはばらつきがあって、少々乱暴ものはいましたが、えばる子もなく、みな仲良しで、大きな家族のように自然に長幼がおさまっていました。

 

世田谷ののどかな住宅街、ときどき「玄米パンのホッカ、ホカー」と玄米パン売りがやって来ました。

爆弾あられ売りがくると家から、小銭ともち米をもってオジサンに渡す。ドカンという音の後、アラレができるのでした。

 

5円玉や10円玉をもって、今もわずかに残る駄菓子屋での買い物、酢イカやラムネ。飲み物も菓子も好きだった。くじにはいつも「スカ」の文字!。

 

涼しげな音を鳴らしながら風鈴売りが来た時期もありました。豆腐売りも,アサリ売りも。

 

夕方になると「明日天気になあれ」と「下駄占い」をして、「カラスが鳴くからかーえろ」と歌いながら家に帰りました。 

 

そしてラジオの前で「1丁目1番地」や「笛吹き童子」に「紅孔雀」。「赤胴鈴乃助」、「少年探偵団」を楽しみに聞き入った。

どれも主題歌が抜群によかった。

 

ラジオは、小学校2~3年生のときにテレビが普及する前までのことでした。

 

1日が何と長く充実していたことだろう。

 

当時の写真をたまに見と。「Vサイン」のポーズもまだなく、みないい表情だ。

大人の世界はまだはるか遠くの向こうで、素直に明日が信じられた。

 

遊んでばかりでしたが、本は自然に読んでいました。今の子がふつうに本を読まないのとはまったく逆で、本は面白くて、いつも身近にありました。

 

小学館の学年ごとの学習雑誌や講談社の「少年少女世界名作全集」。

岩波の四角い絵本童話。

たしか実業の日本社から出ていたとても厚い「日本の昔話」や「世界の昔話」もおもしろかった。

いまも新聞広告で目にする童話や子供向けの出版社の名は懐かしい。。

 

表紙の絵が紙芝居風だった「少年探偵団」シリーズは今もあるのだろうか。

 

あのころ、毎日が楽しく幸せでした。

 

本当によく遊んだものだ。

 

あらためて、両親の深い愛情に感謝せずにいられません。

 

 

 いまのこどもたちは家のなかでゲーム遊びに熱中します。

外で大勢と遊ばないので、ひととの接し方も判らないと聞きます。これも時代の流れなのか、何ともいいようがありません。

彼らの何十年後の思い出は、一体どうなっていることだろうか。

 

子供時代。それはどんなにお金を積んでも、もう2度と再現はできないぜいたくな日々。

映画「3丁目の夕日」は、世代の若い監督がみごとに描きあげてくれました。

 

しかし、あの時代のこどもが決して味わうことができなかったもの。

それは「3つのオレンジへの恋」のオムライス。

 

 

(付記)

この記事がアップした日、NHK「クローズアップ現代」で、津波により児童70名が亡くなられた大川小学校と、200名以上が犠牲になった消防団をとりあげていました。

 

人生を、その入り口や途中で無残にも奪われた方々と、残された方のこころの傷の深さ・・・・。

 

衷心よりご冥福をお祈りいたします。